三連休、送迎の空き時間にドライブがてら埋立地へ行った。
休日なので、あちこちにある工場や倉庫もあまり稼働している感じはなく、
広い敷地にコンテナが山積みになっていて、海の見えるところがあったり、
大きな橋があったり、ひたすら防波堤が続いていたり。
人工的で広大すぎる感じが、なんとも言えない無機質さを醸し出している。
とある公園へ寄ったところ、当初はお金をかけて作られたであろうアスレチックやベンチがあるものの、
人っ気もなく、ひたすら背高く雑草が生い茂って、歩きにくいほどだった。
防波堤には落書き、得体の知れないブルーシートに覆われた何か…
このゴーストタウン感。
治安の悪さは明らかだ。
自治体が放置している、その土地にお金をかけていない、ということ。
この見放された土地は荒れていく一方である。
そしてこれは人間にも言えることで、親や周りから「心を」見放されたこどもは、心が荒んでいく一方なのだ。
どんなに手のかかる子でも、丁寧にこどもの「心」と向き合わないと、だんだん手がつけられない事態になる。
反抗的になり、非行に走り、持ち直さなければ犯罪を犯すに至る。
または自分を責め、鬱になり、自殺願望を抱いてしまったり。
私は娘たちを分け隔てなくたくさん抱きしめ、大切に育てていたが、
ひとりが精神を病んだ。
大切に育ててたのにどうして、と思ったけれど、
自分に性格が似ているために、心配が過ぎて、色々厳しくしてしまっていたことに気がついた。
それがもしかしたら、本人の心を顧みず、じわじわ人格否定に追い込んでいたのかもしれない。
少しずつ改心して、娘への小言を減らし、肯定をぐっと増やした。
そうしていく内に、いかに自分が娘の力を信じずに、小言を言っていたかに気づいた。
娘は波はあるものの、少しずつ元気を取り戻してきている。
色んなことが重なって精神を病んだのだけれど、
やはり親はこどものベースを作り上げるのだから、私の責任は凄まじく大きい。
彼女を受け入れる器が足らなかったのだ。
心から反省している。
そんな折、私が教鞭をとる高校でもかなり反抗的な生徒がいる。
しかしじっくり話を聴いてみると、彼らもまた、色んな事情に苛まれ、不平不満を抱えている。
娘と同世代ということもあり、色々話をしていく内に、彼らも認められない心と不満に満ちていることに気づいた。
とても話が好きで、本当は人が好きで、たくさん観察をしていることに気づいた。
最初は攻撃的だったが、愚痴を吐ききった頃には、少し穏やかになっていった。
受け止める方は、ひたすら辛くて胃が痛いが、彼らの心を少しは救えるかも、という想いで向き合ってみた。
全く解決には至らないが、受け止めることで彼らは少し楽になっただろうか。
私はその日、娘のこと、彼らのことでなぜか涙が止まらなくなり、学校のトイレで泣き続けた。
心と向き合うということは、忍耐も体力もいるし、場合によってはお金もかかるし、全くもって簡単なことではないけれど、
でもそこで初めて「育む」といえるのではないか。
我が子たちが思春期を迎え、「育む」ことの難しさと大切さに直面している。