繰り返す挑戦

ギターを弾けないのが長年の悩み。

弾けるようになりたくて、コピーしたり教則本買ったり、ろくに弾けもしないままギターとして初心者歓迎バンドに飛び込んだり。

その度に少し弾けるようになるものの、次に繋がるものがなかったりバンド合わなくてやめちゃったりで、また弾けなくなる。

その繰り返し。

 

でもちゃんと仕事に活用できるくらいは弾けるようになりたい。

と思って、昨年教則本片手に改めて独学で始めた。

娘が本格的にギターを始めて刺激を受けたのも大いにある。

 

しかし一時期娘が体調を崩し、それどころではなくなってしまい、また弾けなくなる。

ようやく体調も戻ってきたので、今度こそと奮起。

仕事が丁度途切れたので、ギター入りのオリジナル曲を作り、自分で収録することにした。

いつまでも練習じゃなくて、無理矢理にでも実務に反映させていく作戦だ。

今度こそうまく行くか?!

確定申告を先にすべきか?!

したいとしなきゃのせめぎ合いは今日も続く。

社会は繋がっている

2ヶ月ほど前。

京アニ放火事件の裁判が始まり、被告についてのニュースが飛び交うようになり、

治療を担当した医療チームの壮絶な治療はもちろん、その手記や葛藤などを読むも、

これは医療が発達したことによる新しい倫理問題ではないだろうか、その超越した葛藤は、外野の私たちの想像を優に超越する。

 

そんな中、被告の生い立ちのニュースも出てきた。

その壮絶な生い立ちを読むと、誰かが手を差し伸べていれば、

被告がここまで自己肯定感を落として、自暴自棄にならなかったのでは、と思ってしまう。

しかしそう言い放つだけは簡単なこと。


私は事情の多い子たちと接する機会もある。
反抗的な子、反応の薄い子、力なく何もやらない子…
みんな話を聞いてみたら、複雑な環境や多感な想いを抱えていたり、逆に感情も覇気もない感じにゾッとしたりもする。
学生の間は近しい学力の子たちで学校に通い、見合った学習や教育をしていくが、卒業してしまえばみんな同じ社会に紛れ込むのである。
例えば、超エリートとそうでない子たちは同じ会社で仕事をしなくても、ひとつの社会を回す一員になるのだ。どこかで巡り会うかもしれないのだ。

どんなに反抗的でも、どんなに反応が薄くても、見放してはいけないのである。
見放すことはコミュニケーションの断絶。つまり心の中に何かひとつの死を意味する。
そんな死を積み重ねてはいけないのである。

家族、学校、友人、会社、コミュニティ…私たちは小さな社会にいくつか属していて、

その中でいつも浮き沈みしながら泳いでいる。

自暴自棄は小さな社会が生み出す死の積み重ね、という側面もあるのではないだろうか。
それはいずれ大きな社会に跳ね返ってくるかもしれない。
跳ね返るならば、たくさんの人で、出来るだけ良い種を、丁寧に丁寧に撒いていきたい。


高1秋

娘が苦しんでいる。
クラスのこと、部活のこと、活動のこと、将来のこと。
おそらく恋愛や家族のことも悩んだりしているだろう。

出来るだけ寄り添って話を聞くが、彼女は一度スイッチが入ると、立ち直るまでに膨大な時間がかかる。
数時間床に座り込んだりふて寝したり、深夜になって行動を開始したりするので、やるべき課題や行動が後回しになり、挙句、睡眠不足、遅刻。心身ともに悪循環に陥る。
これはいくら言ったところで変えられないし、口うるさく言うことで状況は悪化するため、充分に落ち込み切るまで見守るしかない。
そして愚痴を聞いている側としては、何を言っても前向きにならず、ひたすら落ち込みが続くので、
なかなかメンタルを削られるのだ。

そこまでではないが、彼女は私に似ている。
だからこそ理解できる部分もあれば、自分を見ているかのように苛立つ部分もある。

そしてそれは娘からも言えることである。
そんな彼女に苛立つことなく寄り添えるのは夫だ。
なんせ彼女は私に似ているのだから。

流石こんな私にも面倒がらずにずっと寄り添ってくれている夫である。救われる。


そして彼女は賢い。色々深く掘り下げて考える。
だからきっと、私より色々考えを巡らせている。考えすぎるのだ。優しすぎるのだ。
逆に、彼女は俯瞰するのが苦手だ。

クラスの子が、ずっと誰かの陰口を叩いているのがしんどい、時折自分がターゲットになるのも辛い、と毎日のように嘆いているが、
自分も家族や友人の輪の中で、同じようなことをしてしまっていると気づいているだろうか。

そしてきっと本人は、自分の悲壮感がどれだけ周りも引きずり込んでいるかに気づいていない。
彼女は良くも悪くも、人をすごく惹きつける人間なのだ。
自己肯定感さえもう少しあれば、めちゃくちゃ魅力的なのである。
ただその肯定感の低さが、卑屈を増強して、負の要素を引き寄せているように思う。


やんわり伝えているが、それに自分で気付くのは、彼女がもう少し心の成長を遂げた時だと思う。
今は苦しい渦中。
耐えて、考えて、進め。全力で基地となって見守るから。

私の進路

今とても迷っている。

このままフリーランスを続けるか、どこかの正社員になるか。

理由はこどもたちの学費。

ふたりとも一度に大学生になる。もちろん好きな進路に進ませてあげたい。

それぞれが別の場所に住む可能性すらある。

そう。ものすごくお金がいるのだ。

 

正社員になれれば、確実な年収が約束される。

福利厚生も安心。

ただし本当にやりたいことかと言われれば、ちょっぴり自信がない。

今のような自由も融通も効かないから、こどもたちに合わせることができない。

 

今のままフリーランスを続けるのなら、色々取り揃えた環境を活かして、様々な仕事と様々な出会いに彩られ楽しむことができる。

しかし安定はない。いつなくなるかわからない仕事だし、機材の管理もお金の管理も自分の責任。

 

理想としては、どこかの制作会社と契約して、継続的に仕事をもらえる環境だけれど、果たして就職と同等の金額を得られるのか。

 

実力のことはもちろん、年齢のこともあるから、どこも受からない可能性だってある。

悩む前に数を打たなくてはならない。

周到に準備をした上で覚悟を決めて、当たった道に突き進むしかない。

 

双子の進路

次女は進む道をすっかり決めて邁進している。

それに対して長女は、自己肯定感が低めで、やりたいことが定まっていない。

好きなことや得意なことは沢山あるのに、「どれも突き詰めるほどではない」「私には無理」と、とても後ろ向きなのだ。

 

次女に対する劣等感もあるようだ。

次女は早くから注目を受けるような活躍をしていたこともあり、

また自分の芯をしっかり持っているところに、羨ましいと感じている部分もあるようで。

 

「自分が好きなことは大抵人から受けた影響でしかない」

と落ち込んでいるのだが、誰だってそんなもんだろう。

好きなものに背景があって何がいけないのか。

 

彼女が邁進する時は、自己肯定感が強くなった時なんだろう。

ずっとずっと応援しているし、今となっては親にできることなのかは不明だけど、そっと彼女の、彼女たちの自己肯定感を支えて続けていきたい。

過去と死

私の大好きな絵本である「つみきのいえ」。

YouTubeで映像を観たことはあったのだけれど、Amazonプライムで見つけたので、久々に夜ひとりで視聴していた。

いつも新しい発見につながる作品。

以前観た時とはまた違う、込み上げてくる感情で泣いていた。

 

あるお爺さんがひとりで住む家は、辺りが海のように水に沈んでいて、水嵩が増す毎に、家を上に増築していくので、まるでつみきのようになっている。

それでもそこに住み続ける理由とは…といったお話。

温暖化や家族愛を描いている。

 

当然水の中は、深く進むほどに過去になっていく。

浸水は過去や止められない時間の流れを表しているのだろう。

と同時に、沈んだ家は放置されて朽ちていく…

これは死を表しているのか、と気づいた。

過去と死は表裏一体なのではないか。

時間は進みながら過去を死に追いやっている。

死は過去と同じカテゴリーなのではないか。

戻れない過去、戻せない命、でもそれが在るからこそ現在の自分が確立されている。

それが在るからこそ、次に進むための足場ができるのだ。

 

 

 

そんなことを書きかけて下書き保存していた。

2022年の12月8日。

後から知った事だが、この日は奇しくも、私の師匠が亡くなった日であった。

この絵本が大好きな理由がもうひとつあって、

主人公のおじいさんが、師匠にちょっと似ているのである。

見た目も人柄も。

だからふわっと脳裏に師匠が浮かんでいたのは確かなのだ。

虫の知らせとは言うが、そのタイミングでこの作品を見つけ、死について考えていたことが、

師匠からのメッセージのような気がしてならない。

 

冬を乗り越えて

気づけば半年ほど経っていた。

あれよあれよと仕事が舞い込み、受験と仕事で大忙しの年末。

一月、母が体調を崩し入院。

日中仕事をし、夕方には料理のできない父親のご飯を作って取りに来てもらい、娘たちをそれぞれの塾へ送迎する、という日々を送っていた。

 

怒涛の一ヶ月がすぎた頃、恩師の訃報を知った。

あまりのショックに、ただただ呆然としてずっと動けなかった。

昨年の年賀状で、みんなでたこ焼きパーティーしましょうというお返事を頂いていた。

ものすごく嬉しくて、すぐにでも伺いたかったけれど、万が一コロナを先生にうつしてしまったら…と躊躇した。

コロナが落ち着いたら会いに行こうと同期と話していたので、会いに行かなかったことがひたすら悔やまれる。

今だから話したいこと、聞きたいこと、教わりたいことがいっぱいいっぱいあったのに…

先生のお陰で音楽の仕事が続けられていますって、先生に感謝を伝えたかった。

気持ちが切り替えられないままでいた。

 

母は退院したものの、家事のサポートなどしつつ、コロナやインフルにかからないよう最大限気をつけながら、娘たちの私立受験、公立受験、卒業式…と過ぎていった。

 

無事公立に合格し、そのあとは説明会や入学準備に追われていた。

そんな中、恩師のお別れ会の開催が決まり、お手伝いをさせて頂くことになった。

仕事そっちのけ…とまではいかないが、同期と動画制作などに追われ、とても充実していたし、恩師がいかに偉大な人だったのかを、改めて思い知る機会となった。

音楽に対してもっともっと本気になって頑張らなくては、と同期で誓った。

それもこれも、恩師のお陰。

頑張れ、と恩師が背中を押してくれたのかもしれない。

 

この春から娘たちが高校生になるので、今のうちに、と家族旅行へも行った。

やりたいこと色々詰め込んだので、移動も多くバタバタの旅行になったけど、家族みんなすごく充実したものになった。

 

振り返るとなかなかに大変な半年だったな…

でも実りの多い時間ばかり。

恩師の死も糧にして、音楽と生きて、生きていかねば。