2ヶ月ほど前。
京アニ放火事件の裁判が始まり、被告についてのニュースが飛び交うようになり、
治療を担当した医療チームの壮絶な治療はもちろん、その手記や葛藤などを読むも、
これは医療が発達したことによる新しい倫理問題ではないだろうか、その超越した葛藤は、外野の私たちの想像を優に超越する。
そんな中、被告の生い立ちのニュースも出てきた。
その壮絶な生い立ちを読むと、誰かが手を差し伸べていれば、
被告がここまで自己肯定感を落として、自暴自棄にならなかったのでは、と思ってしまう。
しかしそう言い放つだけは簡単なこと。
私は事情の多い子たちと接する機会もある。
反抗的な子、反応の薄い子、力なく何もやらない子…
みんな話を聞いてみたら、複雑な環境や多感な想いを抱えていたり、逆に感情も覇気もない感じにゾッとしたりもする。
学生の間は近しい学力の子たちで学校に通い、見合った学習や教育をしていくが、卒業してしまえばみんな同じ社会に紛れ込むのである。
例えば、超エリートとそうでない子たちは同じ会社で仕事をしなくても、ひとつの社会を回す一員になるのだ。どこかで巡り会うかもしれないのだ。
どんなに反抗的でも、どんなに反応が薄くても、見放してはいけないのである。
見放すことはコミュニケーションの断絶。つまり心の中に何かひとつの死を意味する。
そんな死を積み重ねてはいけないのである。
家族、学校、友人、会社、コミュニティ…私たちは小さな社会にいくつか属していて、
その中でいつも浮き沈みしながら泳いでいる。
自暴自棄は小さな社会が生み出す死の積み重ね、という側面もあるのではないだろうか。
それはいずれ大きな社会に跳ね返ってくるかもしれない。
跳ね返るならば、たくさんの人で、出来るだけ良い種を、丁寧に丁寧に撒いていきたい。